第6章総まとめと総合演習
この章の目標
- 5つの要素を1枚のチートシートとして頭に定着させる
- 複数の公理をまたぐ総合演習を、何も見ずに解けるようになる
- ステップ2へ進む準備が整ったことを確認する
6.1 チートシート — ステップ1のすべて
| 要素 | 内容 | 計算の型 |
|---|---|---|
| 記法(第1章) | $|\psi\rangle$=縦ベクトル、$\langle\psi|$=共役転置、$\langle\varphi|\psi\rangle$=内積(左に共役)、$|\varphi\rangle\langle\psi|$=行列 | 記号を行列の型として読む |
| 公理1: 状態(第2章) | $|\psi\rangle = \alpha|0\rangle + \beta|1\rangle$, $|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1$。グローバル位相は無意味、相対位相は本質 | 正規化=ノルムで割る |
| 公理2: 時間発展(第3章) | $|\psi'\rangle = U|\psi\rangle$、$U^\dagger U = I$。可逆・決定論的。$X$(反転), $Z$(位相), $H$(重ね合わせ) | ゲート列は右から左へ行列積 |
| 公理3: 測定(第4章) | $P(k) = |\langle\varphi_k|\psi\rangle|^2$、測定後は $|\varphi_k\rangle$ に収縮。不可逆・確率的。基底の選択=何を測るか | 内積→絶対値²、残す→正規化 |
| 公理4: 合成(第5章) | $|\psi\rangle \otimes |\varphi\rangle$、$n$ 量子ビットは $2^n$ 次元。分解できない状態=エンタングルメント。判定式 $c_{00}c_{11} = c_{01}c_{10}$ | $(A \otimes B)(|\psi\rangle \otimes |\varphi\rangle) = A|\psi\rangle \otimes B|\varphi\rangle$ |
そして各章で拾った「量子計算的なものの見方」:
- 振幅は複素数なので打ち消し合える(干渉)。確率にはできない芸当。
- 重ね合わせは「未確定の乱数」ではなく、基底を変えれば確定する完結した状態。
- ユニタリ(可逆・情報を保つ)と測定(不可逆・情報を潰す)の役割分担。
- 状態空間は指数的に大きいが、取り出せるのは測定した分だけ。
- エンタングルメント=分解できないベクトル。相関はあるが信号は送れない。
6.2 総合演習
公理を横断する問題です。チートシートだけを頼りに(できれば何も見ずに)解いてください。全問解ければステップ1は修了です。
【1量子ビット通し】$|0\rangle$ に $H$、$R_{\pi/2} = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & i \end{pmatrix}$、$H$ をこの順に掛け、最後に標準基底で測定する。各ステップの状態と、最終的な $P(0)$ を求めよ。
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$H|0\rangle = \frac{|0\rangle + |1\rangle}{\sqrt2}$。次に $R_{\pi/2}$ で $\frac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2}$。最後の $H$ は $|0\rangle \mapsto |+\rangle$, $|1\rangle \mapsto |-\rangle$ なので $$\frac{|+\rangle + i|-\rangle}{\sqrt2} = \frac{(1+i)|0\rangle + (1-i)|1\rangle}{2}$$ $P(0) = \frac{|1+i|^2}{4} = \frac{2}{4} = \frac12$。位相 $\pi/2$ の情報が $H$ によって確率に変換されました($R_\pi = Z$ なら $P(0) = 0$、$R_0 = I$ なら $P(0) = 1$ になります。位相→確率の変換器としての $H$、これがステップ3の干渉アルゴリズムの心臓部です)。
【2量子ビット通し】$|00\rangle$ に $H \otimes H$ を掛けた状態を書き下し、標準基底での4つの測定確率を求めよ。この状態はエンタングルしているか。
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$(H \otimes H)|00\rangle = |+\rangle \otimes |+\rangle = \frac12(|00\rangle + |01\rangle + |10\rangle + |11\rangle)$。確率はすべて $\frac14$。判定式 $\frac14 = \frac14$ で積状態(エンタングルしていない)。「$H$ を全量子ビットに掛けて全基底状態の一様重ね合わせを作る」のは量子アルゴリズムの定番の第一歩ですが、この時点ではまだ何のもつれもありません。
【ベル状態・別ルート】$|10\rangle$ に (1) $H \otimes I$、(2) CNOT を掛けると何になるか。4つのベル状態のどれかになることを確かめよ。
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$(H \otimes I)|10\rangle = |-\rangle \otimes |0\rangle = \frac{|00\rangle - |10\rangle}{\sqrt2}$。CNOT で $|00\rangle \mapsto |00\rangle$, $|10\rangle \mapsto |11\rangle$ なので結果は $\frac{|00\rangle - |11\rangle}{\sqrt2} = |\Phi^-\rangle$。同じ回路に別の基底状態を入れると別のベル状態が出ます(4つの入力 $|00\rangle, |01\rangle, |10\rangle, |11\rangle$ が4つのベル状態に1対1対応。ユニタリが正規直交基底を正規直交基底に写す——第3章の教訓——の実例です)。
【測定タイミング】問6-3の状態 $|\Phi^-\rangle = \frac{|00\rangle - |11\rangle}{\sqrt2}$ について、(a) 2つ同時に標準基底で測ったときの結果の分布、(b) 先に1番目だけ測り、その後2番目を測ったときの結果の分布を求めよ。両者に違いはあるか。
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(a) $P(00) = P(11) = \frac12$、他は0。 (b) 1番目: $P(0) = \frac12$。$0$ なら状態は $|00\rangle$ に収縮し2番目は確実に $0$。$1$ なら $|11\rangle$ で2番目は確実に $1$。合わせると $P(00) = P(11) = \frac12$。 分布は完全に同じです。一般に、可換な測定(別々の量子ビットの測定は常に可換)の順序は結果の統計に影響しません。回路図で測定を「最後にまとめて」書いてよい理由がこれです。一方、同じ量子ビットへの基底の異なる測定は順序で結果が変わります(問4-4で見た収縮の効果)。
【位相キックバック入門】CNOT の制御側に $|+\rangle$、標的側に $|-\rangle$ を入れる:$\mathrm{CNOT}(|+\rangle \otimes |-\rangle)$ を計算せよ。結果を積状態に分解し、制御ビット側に何が起きたか述べよ。
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展開すると $|+\rangle \otimes |-\rangle = \frac12(|00\rangle - |01\rangle + |10\rangle - |11\rangle)$。CNOT($|10\rangle \leftrightarrow |11\rangle$)で $$\frac12(|00\rangle - |01\rangle + |11\rangle - |10\rangle) = \frac{|0\rangle - |1\rangle}{\sqrt2} \otimes \frac{|0\rangle - |1\rangle}{\sqrt2} = |-\rangle \otimes |-\rangle$$ 標的は $|-\rangle$ のまま、制御側が $|+\rangle$ から $|-\rangle$ に変わりました。「制御が標的を変える」はずの CNOT が、逆に制御側の相対位相を反転させています。この位相キックバックは、Deutsch-Jozsa や位相推定(ステップ3)で「関数の答えを位相として制御側に転写する」中心テクニックです。ステップ1の道具だけで計算できたことに注目してください——もうアルゴリズムの部品を1つ手に入れています。
【言語化】次の主張の誤りを、公理に基づいて2〜3文で指摘せよ。 (a) 「量子ビットは0と1を同時に取るので、$n$ 量子ビットで $2^n$ 個の値を同時に計算して全部読み出せる」 (b) 「観測すると状態が壊れるのは、測定装置が乱暴に叩くからで、そっと測れば壊れない」 (c) 「エンタングルした粒子の片方を測ると、もう片方に瞬時に信号が届く」
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(a) 状態は $2^n$ 個の振幅を持つが(公理1・4)、読み出しは測定であり(公理3)、1回の測定で得られるのは $2^n$ 通りのうち1つの結果だけ。しかも収縮で他の振幅は失われる。並列性を活かすには、測る前に干渉で答えを1点に寄せる工夫(=アルゴリズム)が要る。
(b) 収縮は公理3そのもので、装置の精度の問題ではない。どんなに理想的な射影測定でも、基底と直交しない状態は必ず確率的に収縮する。「そっと測る」に相当する操作で得られる情報は、乱す度合いに比例して減る(情報と擾乱のトレードオフ)。
(c) 測定後の相関は完全だが、相手側単独の測定統計は変化しない(演習5-9)。統計が変わらない以上、信号(情報)は伝わっていない。相関の確認には古典通信が必要。
この3つがスラスラ言えれば、量子コンピュータのニュース記事の誇張を自力で見抜けるはずです——ステップ3修了後の到達点に、既に片足が掛かっています。
【最終問題】白紙に、この教材の4つの公理(+記法)を自分の言葉と数式で書き出せ。そのうえで、$|00\rangle$ からベル状態を作って測定するまでの全計算を、何も見ずに再現せよ。
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チートシート(6.1節)と演習5-6・5-9が模範解答です。書き出した公理が5要素すべてをカバーし、ベル状態の生成($H \otimes I$ → CNOT)と測定($P(00) = P(11) = \frac12$、片方の測定でもう片方が確定、ただし信号は送れない)まで淀みなく計算できたら——ステップ1修了です。おめでとうございます。
6.3 ステップ2への橋
あなたはもう、以下の装備を持っています。ステップ2(量子回路)は、これらを「回路図」という新しい見た目で使い直すだけです。
| ステップ1で学んだこと | ステップ2でこう化ける |
|---|---|
| $X, Z, H, R_\phi$ の行列 | 1量子ビットゲート。ブロッホ球上の回転として再解釈 |
| $(\theta, \phi)$ パラメータ(第2章) | ブロッホ球そのもの |
| ゲート列=右から左の行列積 | 回路図(左から右に読む——順序が逆になるので注意) |
| CNOT とベル状態の生成 | 最初に書く Qiskit 回路 |
| 測定シミュレータのヒストグラム | qc.measure_all() の実行結果 |
| ユニタリの可逆性、問3-8の論法 | 可逆計算・Toffoli ゲート・no-cloning 定理 |
推奨する次の一歩:Qiskit をインストールして、演習5-6のベル状態生成回路を実際に組み、実験5bと同じヒストグラムが出ることを確認する。手計算とシミュレータが一致した瞬間が、ステップ1の本当の修了式です。