第1章ブロッホ球と1量子ビットゲート
この章の目標
- 1量子ビットの状態を球面上の点として読み書きできるようになる
- $X, Y, Z, H$ を「軸まわりの180°回転」として直観的に扱えるようになる
- 回転ゲート $R_x, R_y, R_z$ と $S, T$ を語彙に加える
- 「直交する状態はブロッホ球では正反対の点」という角度の対応を腹落ちさせる
1.1 ブロッホ球 — 1量子ビットの地図
ステップ1第2章で、1量子ビットの状態は(グローバル位相を除いて)実数2つで書けることを見ました: $$|\psi\rangle = \cos\frac{\theta}{2}|0\rangle + e^{i\phi}\sin\frac{\theta}{2}|1\rangle \qquad (0 \le \theta \le \pi,\; 0 \le \phi < 2\pi)$$ $(\theta, \phi)$ は球面上の点の極角(北極からの角度)と方位角そのものです。つまり1量子ビットの状態全体は、単位球面と1対1に対応します。これがブロッホ球です。主要な状態の位置を覚えてください:
| 位置 | $(\theta, \phi)$ | 状態 |
|---|---|---|
| 北極(+z) | $(0, -)$ | $|0\rangle$ |
| 南極(−z) | $(\pi, -)$ | $|1\rangle$ |
| 赤道 +x | $(\tfrac{\pi}{2}, 0)$ | $|+\rangle = \frac{|0\rangle + |1\rangle}{\sqrt2}$ |
| 赤道 −x | $(\tfrac{\pi}{2}, \pi)$ | $|-\rangle = \frac{|0\rangle - |1\rangle}{\sqrt2}$ |
| 赤道 +y | $(\tfrac{\pi}{2}, \tfrac{\pi}{2})$ | $|{+i}\rangle = \frac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2}$ |
| 赤道 −y | $(\tfrac{\pi}{2}, \tfrac{3\pi}{2})$ | $|{-i}\rangle = \frac{|0\rangle - i|1\rangle}{\sqrt2}$ |
$|0\rangle$ と $|1\rangle$ は直交(内積0)ですが、ブロッホ球上では90°ではなく180°(正反対の点)です。状態の式に $\theta/2$ と半角が入っているためで、ヒルベルト空間での角度はブロッホ球上で2倍になります。一般に「直交する2状態=球面上の対蹠点(アンチポード)」。逆に球面上で90°の $|0\rangle$ と $|+\rangle$ は直交せず、$|\langle 0|+\rangle|^2 = \frac12$ の重なりを持ちます。ブロッホ球を読むときは常にこの「角度2倍則」を意識してください(演習1-7, 1-8)。
1.2 パウリゲートと $H$ は「180°回転」
まず $X$, $Z$ に、残っていた3人目のパウリ行列 $Y$ を加えます: $$X = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ 1 & 0 \end{pmatrix}, \quad Y = \begin{pmatrix} 0 & -i \\ i & 0 \end{pmatrix}, \quad Z = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix}$$ ブロッホ球で見ると、これらの作用は驚くほど単純です(グローバル位相を除く。以下同様):
- $X$ = x軸まわりの180°回転。北極⇄南極が入れ替わる($|0\rangle \leftrightarrow |1\rangle$:ビット反転)。$|+\rangle, |-\rangle$ は軸上にあるので不動(演習1-4)。
- $Y$ = y軸まわりの180°回転。
- $Z$ = z軸まわりの180°回転。極は不動($|0\rangle, |1\rangle$ は変わらない)、赤道上では $|+\rangle \leftrightarrow |-\rangle$(位相反転)。
- $H$ = x軸とz軸のちょうど中間の斜め軸($\frac{x+z}{\sqrt2}$ 方向)まわりの180°回転。この回転はx軸とz軸を入れ替えるので、$|0\rangle \leftrightarrow |+\rangle$、$|1\rangle \leftrightarrow |-\rangle$。ステップ1で計算だけで示した $HZH = X$ は、「軸を入れ替えてから回して戻す」という絵で自明になります(演習1-5)。
1.3 回転ゲート — 任意の角度へ
180°だけでなく任意角度の回転もゲートとして使えます:
それぞれ z, x, y 軸まわりの角度 $\lambda$ の回転。行列に $\lambda/2$ が現れるのは角度2倍則の裏返しです。$R_z(\lambda)$ はステップ1の位相ゲート $R_\phi = \mathrm{diag}(1, e^{i\phi})$ とグローバル位相だけの違いで、物理的に同じ操作です。
頻出の固定角度には名前があります。$S = R_z(90°)$ 相当($\mathrm{diag}(1, i)$)、$T = R_z(45°)$ 相当($\mathrm{diag}(1, e^{i\pi/4})$)。$T^2 = S$, $S^2 = Z$ です(演習1-3)。
任意の1量子ビットユニタリは、グローバル位相を除いてブロッホ球のある軸まわりのある角度の回転であり、$R_z(\alpha) R_y(\beta) R_z(\gamma)$ の形(オイラー角分解)に必ず書けます。つまり「1量子ビットゲート=球面の回転」は例外のない対応です。さらに、$H$ と $T$ の2つだけの組み合わせで任意の回転を好きな精度で近似できることが知られています(Solovay–Kitaevの定理。実機のゲートセットが少数で済む理論的根拠です)。
from qiskit import QuantumCircuit
from qiskit.quantum_info import Statevector
from qiskit.visualization import plot_bloch_multivector
import numpy as np
qc = QuantumCircuit(1)
qc.h(0)
qc.t(0) # ほかに qc.x(0), qc.s(0), qc.rz(np.pi/3, 0) など
sv = Statevector.from_instruction(qc)
plot_bloch_multivector(sv).savefig("bloch.png")
上の実験1と同じ絵がQiskitでも描けます。手で予想 → 実験1で確認 → Qiskitで再確認、の三重チェックが最強の練習です。
演習1
次の状態のブロッホ球上の位置 $(\theta, \phi)$ を求めよ。(a) $\frac{|0\rangle - i|1\rangle}{\sqrt2}$ (b) $\frac{\sqrt3}{2}|0\rangle + \frac12|1\rangle$ (c) $|1\rangle$
解答を見る
(a) $\cos\frac{\theta}{2} = \frac{1}{\sqrt2}$ より $\theta = \frac{\pi}{2}$、$e^{i\phi} = -i$ より $\phi = \frac{3\pi}{2}$。赤道の −y、つまり $|{-i}\rangle$。(b) $\cos\frac{\theta}{2} = \frac{\sqrt3}{2}$ より $\theta = \frac{\pi}{3}$(60°)、$\phi = 0$。北極寄りのxz面上。(c) 南極 $\theta = \pi$($\phi$ は不定:南極では方位角に意味がない)。
$Y$ の作用 $Y|0\rangle$, $Y|1\rangle$ を行列で計算せよ。また $Y = iXZ$ を確かめ、「$Y$ は $XZ$ とグローバル位相を除いて同じ」ことを確認せよ。
解答を見る
$Y|0\rangle = i|1\rangle$, $Y|1\rangle = -i|0\rangle$。$XZ = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ 1 & 0 \end{pmatrix}\begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 & -1 \\ 1 & 0 \end{pmatrix}$、これに $i$ を掛けると $\begin{pmatrix} 0 & -i \\ i & 0 \end{pmatrix} = Y$。ゲートとしての $Y$ は「ビット反転と位相反転を同時に行う」操作で、回路上は $XZ$ の2連続で代用できます(グローバル位相は観測不能なので)。
$S = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & i \end{pmatrix}$, $T = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & e^{i\pi/4} \end{pmatrix}$ について $S^2 = Z$、$T^2 = S$ を確かめよ。$T$ を8回掛けると何になるか。
解答を見る
対角行列の積は対角成分の積:$S^2 = \mathrm{diag}(1, i^2) = \mathrm{diag}(1, -1) = Z$。$T^2 = \mathrm{diag}(1, e^{i\pi/2}) = S$。$T^8 = \mathrm{diag}(1, e^{i2\pi}) = I$。ブロッホ球では $T$ は z軸まわり45°回転なので8回で360°、一周して戻ります(実験1の(4)で見た通り)。「$Z$ の平方根が $S$、そのまた平方根が $T$」という入れ子で覚えると忘れません。
$X|+\rangle = |+\rangle$ と $X|-\rangle = -|-\rangle$ を行列で確かめよ。ブロッホ球の絵ではこの2つの事実はどう説明されるか。
解答を見る
$X|+\rangle = \frac{1}{\sqrt2}(X|0\rangle + X|1\rangle) = \frac{1}{\sqrt2}(|1\rangle + |0\rangle) = |+\rangle$。$X|-\rangle = \frac{1}{\sqrt2}(|1\rangle - |0\rangle) = -|-\rangle$。ブロッホ球では $|+\rangle, |-\rangle$ はx軸上の点で、$X$ はx軸まわりの回転だから軸上の点は動きません。$-|-\rangle$ の符号はグローバル位相なので球面上では見えない(同じ点)。線形代数の言葉では「$|+\rangle, |-\rangle$ は $X$ の固有ベクトル(固有値 $\pm 1$)」です。回転軸=そのゲートの固有状態、という対応はステップ3の位相キックバックで主役になります。
「$H$ はx軸とz軸を入れ替える回転」を使って、$HZH = X$ と $HXH = Z$ をブロッホ球の絵で説明せよ(行列計算はステップ1でやったので不要)。さらに $HYH$ は何になるか予想し、行列で検算せよ。
解答を見る
$HZH$ は「軸を入れ替える → z軸まわり180° → 軸を戻す」。z軸はxに入れ替わっているので、正味はx軸まわりの180°、すなわち $X$。同様に $HXH = Z$。y軸は $H$ の回転(xz面内の軸まわり180°)で向きが反転するので、$HYH$ は「y軸まわりの逆回転」= $-Y$(グローバル位相を除いて $Y$ の逆回転、180°では $R_{-y}(\pi) \sim Y$ と同じ作用)。行列では $HYH = -Y$ になります。「基底変換でゲートが化ける」を絵で操作できるようになると、回路の式変形が視覚化されます。
$R_z(\lambda)$ を (a) $|0\rangle$ に、(b) $|+\rangle$ に作用させよ。それぞれ物理的に状態は変わるか(ブロッホ球上で動くか)。
解答を見る
(a) $R_z(\lambda)|0\rangle = e^{-i\lambda/2}|0\rangle$。グローバル位相のみで物理的に不変($|0\rangle$ はz軸上=回転軸上)。(b) $R_z(\lambda)|+\rangle = \frac{e^{-i\lambda/2}|0\rangle + e^{i\lambda/2}|1\rangle}{\sqrt2} \sim \frac{|0\rangle + e^{i\lambda}|1\rangle}{\sqrt2}$(全体を $e^{i\lambda/2}$ 倍して整理)。相対位相が $\lambda$ 進み、赤道上を経度 $\lambda$ だけ移動します。「z回転は北極では見えず、赤道で最大に効く」——位相ゲートを使うときは必ず状態を赤道(重ね合わせ)に出してから、が定石である理由です。
ブロッホ球上で対蹠点(正反対)にある2状態 $$|\psi\rangle = \cos\tfrac{\theta}{2}|0\rangle + \sin\tfrac{\theta}{2}|1\rangle, \qquad |\psi^\perp\rangle = \sin\tfrac{\theta}{2}|0\rangle - \cos\tfrac{\theta}{2}|1\rangle$$ ($\phi = 0$ の面内、対蹠点は $(\pi - \theta, \phi + \pi)$)が直交することを内積で確かめよ。
解答を見る
$\langle\psi|\psi^\perp\rangle = \cos\tfrac{\theta}{2}\sin\tfrac{\theta}{2} - \sin\tfrac{\theta}{2}\cos\tfrac{\theta}{2} = 0$。直交ペア=対蹠点ペアの一例です。逆に言うと、1つの測定基底=ブロッホ球を貫く1本の軸(標準基底はz軸、$\pm$基底はx軸)。「どの基底で測るか」は「どの軸に射影するか」という幾何の問題になります。
ブロッホ球上で角度 $\Theta$ 離れた2状態を、一方を基底に取って他方を測定すると、「一致する」確率は $\cos^2\frac{\Theta}{2}$ になる(例:$\Theta = 90°$ の $|0\rangle$ と $|+\rangle$ なら $\cos^2 45° = \frac12$)。この式を $\Theta = 0, 90°, 180°$ で評価し、角度2倍則(ヒルベルト空間の直交=球面の180°)と整合していることを確認せよ。
解答を見る
$\Theta = 0$: $\cos^2 0 = 1$(同じ状態、必ず一致)。$\Theta = 90°$: $\frac12$(完全ランダム——$|0\rangle$ を±基底で測った、ステップ1第4章の例2そのもの)。$\Theta = 180°$: $\cos^2 90° = 0$(対蹠点=直交、絶対に一致しない)。ブロッホ球は「状態同士の区別しやすさ」を距離として可視化した地図であり、近い点ほど測定で区別しにくい。ステップ3で「答えの状態を、初期状態からなるべく遠くへ回してから測る」という発想が出てきますが、その「遠く」はこの距離の意味です。
$H$, $S$, $T$(と必要なら $X, Z$)だけを使って、$|0\rangle$ を $|{+i}\rangle = \frac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2}$ にするゲート列を構成せよ。ブロッホ球で経路を考えてから、行列で検算すること。
解答を見る
絵で考える:$|0\rangle$(北極)→ $H$ で赤道 +x($|+\rangle$)→ z軸まわり90°回転($S$)で赤道 +y。つまり $S H$(先に $H$、次に $S$)。検算:$SH|0\rangle = S|+\rangle = \frac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2} = |{+i}\rangle$ ✓。「北極から出発 → $H$ で赤道へ → $R_z$ 系で経度調整」は任意の赤道上の状態を作る定型パターンです。ブロッホ球で経路を設計してからゲート列に翻訳する、この思考順序を体に入れてください。