第5章no-cloning定理と回路設計の制約

この章の目標

5.1 定理の主張と証明

古典回路にはファンアウト(1本の信号線を分岐させて値を複製する)があります。量子回路の図には分岐がありません。書き忘れではなく、原理的に不可能だからです。

no-cloning定理

未知の量子状態を複製するユニタリは存在しない。すなわち、あらゆる $|\psi\rangle$ に対して $$U(|\psi\rangle \otimes |0\rangle) = |\psi\rangle \otimes |\psi\rangle$$ を満たす $U$ は存在しない。

証明(線形性による)。そのような $U$ があったとする。基底状態では $$U|00\rangle = |00\rangle, \qquad U|10\rangle = |11\rangle$$ が成り立つはずである。すると線形性から、$|+\rangle$ の複製を試みると $$U(|+\rangle \otimes |0\rangle) = \frac{U|00\rangle + U|10\rangle}{\sqrt{2}} = \frac{|00\rangle + |11\rangle}{\sqrt{2}}$$ となる。これはベル状態であって、要求される $$|+\rangle \otimes |+\rangle = \frac{|00\rangle + |01\rangle + |10\rangle + |11\rangle}{2}$$ とは異なる(そもそも前者はエンタングル状態、後者は積状態)。矛盾。$\blacksquare$

直観: 犯人は線形性

複製という操作は入力に対して2次です($|\psi\rangle$ が2回現れる)。しかし量子力学の時間発展は公理2により線形(1次)。1次の機械に2次の仕事はさせられない——それがこの定理の核心で、ステップ1演習3-8(直交基底を非直交に写すゲートは作れない)と同じ「線形性+ユニタリ性は見た目以上に強い制約」の現れです。証明が5行で終わることからも分かる通り、深遠な物理ではなく線形代数の帰結です。

5.2 CNOTは「コピー機」ではなく「もつれ機」

証明の中で出てきた計算は、実はCNOTの動作そのものです。CNOTは基底状態なら確かに複製します: $$|0\rangle|0\rangle \mapsto |0\rangle|0\rangle, \qquad |1\rangle|0\rangle \mapsto |1\rangle|1\rangle$$ つまり古典的な値(基底状態)のコピーは量子回路でも問題なくできます(第6章のファンアウトで使います)。しかし重ね合わせを入れた瞬間、出てくるのはコピー $|\psi\rangle|\psi\rangle$ ではなくエンタングル状態です。「コピーしたつもりがもつれていた」——第4章の問4-7で干渉を壊した犯人もこの現象でした。

下の実験で、入力の重ね合わせ度合いを連続的に変えながら「コピーの失敗ぶり」を観察できます。

実験5: クローン装置(失敗機)

入力 $|\psi\rangle = \cos\frac{\theta}{2}|0\rangle + \sin\frac{\theta}{2}|1\rangle$ をCNOTで「コピー」します。実際の出力と理想のコピー $|\psi\rangle|\psi\rangle$ の一致度(忠実度 $|\langle\text{理想}|\text{実際}\rangle|^2$)を表示します。$\theta = 0°, 180°$(基底状態)では完璧、$\theta = 90°$($|+\rangle$)で最悪になることを確認してください。

5.3 回路設計への影響 — 「できないことリスト」

no-cloningと測定の破壊性(第4章)を合わせると、古典プログラマの常識がいくつも使えなくなります。この「できないことリスト」こそ、量子回路の設計スタイルを決めている当のものです

古典では当たり前量子では理由
変数のコピー(b = a未知の状態には不可能no-cloning
途中の値のログ・print不可能(測ると壊れる)測定の破壊性(第4章)
失敗したらリトライ入力が未知の1個なら不可能元の状態はもう存在しない
バックアップを取ってから危険な操作不可能no-cloning
同じ値を2つの関数に渡す逐次利用か、回路の作り直しno-cloning

一方で、no-cloningは禁止であると同時に資源でもあります。「複製できない」は「盗聴者もコピーを取れない」ということ。量子鍵配送(BB84など)は、盗聴者が状態を読もうとすると必ず痕跡が残る(測れば壊れる+コピーして持ち帰れない)ことを安全性の根拠にしています(演習5-5)。

ステップ3でこう効く 量子アルゴリズムが「重ね合わせで全部の入力を試す」だけで終わらないのは、この章の制約のせいです:計算結果の重ね合わせはコピーも一覧もできず、測れば1つに潰れる。だから干渉で答えの振幅だけを増幅してから測るという迂回路(Grover)や、答えそのものでなく周期という大域的性質を位相に埋め込む迂回路(Shor)が必要になります。ステップ3は「できないことリストを回避する天才的な工夫集」として読むと見通しが良くなります。

演習5

問 5-1ウォームアップ

no-cloning定理の証明を、何も見ずに白紙に再現せよ(5行で書けるはず)。

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5.1節の通り。ポイントは3つ:(1) $U$ の存在を仮定、(2) 基底状態での動作を書く、(3) 線形性で $|+\rangle$ に適用すると、出力(ベル状態)が要求(積状態 $|+\rangle|+\rangle$)と食い違う。この証明はステップ1・2で学んだ道具(線形性、テンソル積、エンタングルの判定)の総復習になっています。

問 5-2ウォームアップ

実験5の計算を手で確かめる。$|\psi\rangle = \cos\frac{\theta}{2}|0\rangle + \sin\frac{\theta}{2}|1\rangle$($c = \cos\frac{\theta}{2}, s = \sin\frac{\theta}{2}$ と略記)について、(a) CNOTの実際の出力、(b) 理想のコピー $|\psi\rangle|\psi\rangle$、(c) 忠実度 $F = |\langle\text{理想}|\text{実際}\rangle|^2$ を計算せよ。

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(a) $\mathrm{CNOT}(c|00\rangle + s|10\rangle) = c|00\rangle + s|11\rangle$。(b) $c^2|00\rangle + cs|01\rangle + cs|10\rangle + s^2|11\rangle$。(c) 内積は $c \cdot c^2 + s \cdot s^2 = c^3 + s^3$、よって $F = (c^3 + s^3)^2$。$\theta = 0$: $F = 1$(完璧)。$\theta = 90°$: $c = s = \frac{1}{\sqrt2}$ で $F = (2 \cdot \frac{1}{2\sqrt2})^2 = \frac12$(コイン投げと同レベル)。重ね合わせが深いほどコピーは失敗します。

問 5-3基本

【内積による別証明】クローンユニタリ $U$ が2つの状態 $|\psi\rangle, |\varphi\rangle$ の両方を複製できるとする。「ユニタリは内積を保つ」(ステップ1演習3-5の一般化)を使って、$\langle\psi|\varphi\rangle = \langle\psi|\varphi\rangle^2$ を導き、これが何を意味するか述べよ。

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複製前の内積:$(\langle\psi| \otimes \langle 0|)(|\varphi\rangle \otimes |0\rangle) = \langle\psi|\varphi\rangle$。複製後:$(\langle\psi| \otimes \langle\psi|)(|\varphi\rangle \otimes |\varphi\rangle) = \langle\psi|\varphi\rangle^2$。ユニタリは内積を保つので $x = x^2$、つまり $\langle\psi|\varphi\rangle \in \{0, 1\}$。複製できるのは、互いに直交する状態の族だけ(または同一状態)。「基底状態(直交族)のコピーはできるが、非直交な未知状態はできない」という5.2節の観察が、そのまま定理の限界として出てきます。古典情報=直交状態に載った情報、と定義したくなるほど綺麗な結果です。

問 5-4基本

「量子状態はコピーできないのだから、量子コンピュータでは同じ計算を2回実行することもできない」——この主張の誤りを指摘せよ。

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no-cloningが禁じるのは「未知の状態の複製」です。状態を作る手順(回路)を知っているなら、回路をもう一度実行して同じ状態を何個でも作れます。実際、実機での実験は同じ回路を数千ショット実行して統計を取ります。禁じられているのは「手順を知らずに、渡された現物1個から増やす」こと。ファイルのコピーは禁止だが、ソースコードからのビルドは何度でも可能、という比喩が近いです。この区別(状態の複製 vs 生成手順の再実行)は混同されやすいので明確に。

問 5-5考え方

【盗聴検出の原理】アリスがボブに、$\{|0\rangle, |1\rangle\}$ または $\{|+\rangle, |-\rangle\}$ のどちらかの基底(毎回ランダムに選ぶ)で符号化した量子ビットを送る。盗聴者イブは途中で量子ビットを測定してからボブに送り直すしかない(コピーは取れない)。イブがZ基底で測定したとき、アリスが $|+\rangle$ を送っていたら何が起きるか。ボブとアリスが後で照合したとき、盗聴はどのように露見するか。

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イブのZ基底測定で $|+\rangle$ は $|0\rangle$ か $|1\rangle$ に収縮(各 $\frac12$)。イブはそれを送り直すが、ボブが(アリスと同じ)X基底で測ると、$|0\rangle$ も $|1\rangle$ もX基底では50/50なので、本来なら100%「$+$」になるはずの結果が確率 $\frac12$ で「$-$」になる。アリスとボブが一部のビットを公開照合すれば、この異常な不一致率(理論値25%)から盗聴が統計的に露見します。イブに勝ち目がないのは:(1) コピーして持ち帰れない(no-cloning)、(2) 測れば痕跡が残る(収縮)、(3) どちらの基底か事前に分からない。BB84鍵配送の安全性の骨格で、この教材の道具だけで原理が完全に説明できます

問 5-6考え方

古典コンピュータのエラー訂正は「同じデータを3copies持って多数決」が基本形である。量子ビットに同じ方式をそのまま適用できない理由を2つ挙げよ。(それでも量子誤り訂正は可能です。どう抜け道を見つけたかは、ステップ3修了後の読み物テーマとして最高です。)

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(1) 未知の状態はコピーできないので、$|\psi\rangle|\psi\rangle|\psi\rangle$ という3重バックアップがそもそも作れない(no-cloning)。(2) 多数決には読む=測定が必要だが、測定は保護したい重ね合わせを壊してしまう。——量子誤り訂正はこの二重の壁を、「状態そのものではなくエラーの種類だけを、データを壊さない集団測定(シンドローム測定)で読む」「コピーの代わりにエンタングルメントで情報を非局所的に広げる」という発想で回避します。CNOTで基底状態は複製できる(5.2節)ことが実は抜け道の入り口になっている、とだけ予告しておきます。

問 5-7考え方

「no-cloningがあるので、量子コンピュータのレジスタの値を関数 $f$ と $g$ の両方に渡したいときは、$f(x)$ を計算して元に戻してから $g(x)$ を計算すればよい」——「元に戻す」が常に可能である理由を、公理2から説明せよ。またこの方法が使えない場合を1つ挙げよ。

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関数計算もゲートの列=ユニタリ $U_f$ なので、逆回路 $U_f^\dagger$(各ゲートを随伴にして逆順に並べる)が必ず存在し、掛ければ入力が復元できます(公理2:ユニタリは可逆)。「コピーは不可能だが、巻き戻しは常に可能」——古典と真逆のトレードオフです。使えない場合の代表は途中で測定してしまったとき:測定は非可逆なので巻き戻せません。「アンコンピュート(計算を巻き戻して補助ビットを掃除する)」というこのテクニックは第6章と、ステップ3のアルゴリズムで多用します。

理解チェックリスト