第2章公理1 — 量子状態はノルム1の複素ベクトル
この章の目標
- 量子ビットの状態 $\alpha|0\rangle + \beta|1\rangle$ を読み書きできるようになる
- 「重ね合わせ」を確率的な「どちらか」と混同しない見方を身につける
- グローバル位相(物理的に無意味)と相対位相(決定的に重要)を区別できるようになる
2.1 公理1
量子ビットの状態は、$\mathbb{C}^2$ のノルム1のベクトルで表される: $$|\psi\rangle = \alpha|0\rangle + \beta|1\rangle, \qquad |\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1$$ $\alpha, \beta$ を確率振幅(複素数)と呼ぶ。
古典ビットが $0$ か $1$ の2値しか取れないのに対し、量子ビットの状態は連続的な複素パラメータ2つで指定されます。ノルム1という条件は、第4章で見るように「$|\alpha|^2$ が $0$ を観測する確率、$|\beta|^2$ が $1$ を観測する確率」であり、確率の合計が1でなければならないことの言い換えです。
次はすべて正しい量子状態です(ノルム1を確認してみてください): $$|0\rangle, \quad |+\rangle = \frac{|0\rangle + |1\rangle}{\sqrt{2}}, \quad \frac{1}{2}|0\rangle + \frac{\sqrt{3}}{2}|1\rangle, \quad \frac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt{2}}$$ 最後の例のように振幅は複素数でよいことに注意。3番目と4番目は $|0\rangle$, $|1\rangle$ を観測する確率が異なります($\tfrac14,\tfrac34$ と $\tfrac12,\tfrac12$)。
2.2 「重ね合わせ」の正しい読み方
$|+\rangle = \frac{|0\rangle+|1\rangle}{\sqrt2}$ を「50%の確率で $|0\rangle$、50%の確率で $|1\rangle$ になっている状態」と読みたくなりますが、これは間違いです。正しくは「$|0\rangle$ でも $|1\rangle$ でもない、それ自身が確定したひとつの状態」です。
違いはどこに現れるか。「コインを投げて表なら $|0\rangle$、裏なら $|1\rangle$ を用意した」という古典的な確率混合と、$|+\rangle$ は、標準基底で測定する限り区別がつきません(どちらも50/50)。しかし測定の基底を変えると差が露呈します。$|+\rangle$ を $\{|+\rangle, |-\rangle\}$ 基底で測ると100%の確率で $+$ が出ますが、確率混合では50/50のままです。この決定的な実験は第4章の演習4-7で自分の手で計算します。ここでは「重ね合わせ=確率的なゆらぎ、ではない」とだけ頭に刻んでください。
2.3 グローバル位相と相対位相
ここが本章最大のつまずきポイントです。次の3つの状態を見比べてください。
$$|\psi_1\rangle = \frac{|0\rangle + |1\rangle}{\sqrt{2}}, \qquad |\psi_2\rangle = \frac{-|0\rangle - |1\rangle}{\sqrt{2}}, \qquad |\psi_3\rangle = \frac{|0\rangle - |1\rangle}{\sqrt{2}}$$- $|\psi_2\rangle = -|\psi_1\rangle = e^{i\pi}|\psi_1\rangle$。全体に共通の係数(グローバル位相)が掛かっているだけ。この2つは物理的に完全に同じ状態です。どんな操作・測定をしても区別できません(演習2-6)。
- $|\psi_3\rangle$ は $|1\rangle$ の係数だけ符号が違う(相対位相が違う)。これは別の状態です。標準基底での測定では区別できません(どちらも50/50)が、基底を変えれば完全に区別できます。
$|\psi\rangle$ と $e^{i\gamma}|\psi\rangle$($\gamma$ は実数)は同じ状態。一般形として、1量子ビットの状態は実質的に2つの実数 $\theta, \phi$ で書ける: $$|\psi\rangle = \cos\frac{\theta}{2}|0\rangle + e^{i\phi}\sin\frac{\theta}{2}|1\rangle$$ $\theta$ が $|0\rangle$/$|1\rangle$ の配分を、$\phi$ が相対位相を決める。
演習2
次のベクトルのうち、正しい量子状態(ノルム1)はどれか。 (a) $\tfrac{1}{2}|0\rangle + \tfrac{1}{2}|1\rangle$ (b) $\tfrac{3}{5}|0\rangle + \tfrac{4}{5}i|1\rangle$ (c) $|0\rangle + |1\rangle$ (d) $\tfrac{1}{\sqrt{2}}|0\rangle - \tfrac{1}{\sqrt{2}}|1\rangle$
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(a) ノルム² $= \tfrac14 + \tfrac14 = \tfrac12 \ne 1$ で不可。(b) $\tfrac{9}{25} + \tfrac{16}{25} = 1$ で正しい(振幅が虚数でもよい)。(c) ノルム² $= 2$ で不可($\sqrt2$ で割れば $|+\rangle$)。(d) $\tfrac12 + \tfrac12 = 1$ で正しい(これは $|-\rangle$)。判定は常に「$|$成分$|^2$ の合計が1か」です。
状態 $|\psi\rangle = \tfrac{1}{\sqrt{3}}|0\rangle + \sqrt{\tfrac{2}{3}}\,e^{i\pi/4}|1\rangle$ を標準基底で測定したとき、$0$ と $1$ が観測される確率をそれぞれ求めよ。
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$P(0) = \left|\tfrac{1}{\sqrt3}\right|^2 = \tfrac13$、$P(1) = \left|\sqrt{\tfrac23}e^{i\pi/4}\right|^2 = \tfrac23 \cdot |e^{i\pi/4}|^2 = \tfrac23$。$|e^{i\pi/4}| = 1$ なので位相因子は確率に影響しません。合計は $\tfrac13 + \tfrac23 = 1$ で検算OK。
ベクトル $2|0\rangle - 2i|1\rangle$ を正規化して量子状態にせよ。
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ノルム² $= |2|^2 + |-2i|^2 = 4 + 4 = 8$、ノルム $= 2\sqrt2$。正規化して $\tfrac{1}{\sqrt2}|0\rangle - \tfrac{i}{\sqrt2}|1\rangle$。
測定したとき $P(0) = \tfrac{1}{4}$, $P(1) = \tfrac{3}{4}$ となる量子状態をひとつ書け。さらに、同じ確率分布を与える別の状態(最初の答えのグローバル位相違いではないもの)をもうひとつ書け。
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例えば $|\psi_1\rangle = \tfrac12|0\rangle + \tfrac{\sqrt3}{2}|1\rangle$。別解として相対位相を変えた $|\psi_2\rangle = \tfrac12|0\rangle - \tfrac{\sqrt3}{2}|1\rangle$ や $\tfrac12|0\rangle + \tfrac{\sqrt3}{2}i|1\rangle$ など無数にあります。標準基底の確率分布だけでは状態は一意に決まらない——確率に現れない相対位相の情報が状態には含まれている、というのが量子状態の本質的な豊かさです。
次の状態のペアのうち、「物理的に同じ状態」はどれか。理由も述べよ。 (a) $|+\rangle$ と $-|+\rangle$ (b) $|+\rangle$ と $|-\rangle$ (c) $\tfrac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2}$ と $\tfrac{-i|0\rangle + |1\rangle}{\sqrt2}$
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(a) 同じ。$-1 = e^{i\pi}$ のグローバル位相のみの違い。(b) 別の状態。$|1\rangle$ の係数だけ符号が違う=相対位相の違い。(c) 同じ。第2の状態に $i$ を掛けると $\tfrac{-i \cdot i|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2} = \tfrac{|0\rangle + i|1\rangle}{\sqrt2}$ で第1の状態に一致。つまり全体を $e^{i\pi/2}$ 倍しただけ。見た目が違ってもグローバル位相で結ばれていれば同じ状態です。判定法:一方を他方で割って(成分比を取って)、共通の位相因子になっていれば同じ。
「グローバル位相は物理的に無意味」を確率の面から確認する。$|\psi\rangle = \alpha|0\rangle + \beta|1\rangle$ と $e^{i\gamma}|\psi\rangle$ について、任意の状態 $|\varphi\rangle$ との内積の絶対値の2乗 $|\langle\varphi|\psi\rangle|^2$ が両者で等しいことを示せ。(第4章で見るように、測定で得られる確率はすべてこの形をしているため、これが「どんな測定でも区別できない」ことの証明になります。)
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$|\langle\varphi|e^{i\gamma}\psi\rangle|^2 = |e^{i\gamma}\langle\varphi|\psi\rangle|^2 = |e^{i\gamma}|^2 \cdot |\langle\varphi|\psi\rangle|^2 = 1 \cdot |\langle\varphi|\psi\rangle|^2$。内積は線形なので位相因子が外に出て、絶対値を取ると消えます。これで「観測可能な量に一切影響しない=物理的に同じ」が確定します。一方、相対位相は $\alpha$ と $\beta$ の片方だけに掛かるため外に括り出せず、内積の値を変えます。
$|\psi_1\rangle = |+\rangle$ と $|\psi_3\rangle = |-\rangle$ は標準基底の測定では区別できない(どちらも50/50)。では $\{|+\rangle, |-\rangle\}$ 基底との内積 $|\langle +|\psi\rangle|^2$ を両者について計算し、この2状態が原理的に区別可能であることを確かめよ。
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$|\langle +|+\rangle|^2 = 1$、$|\langle +|-\rangle|^2 = 0$(演習1-7で直交を確認済み)。つまり $\{|+\rangle,|-\rangle\}$ 基底で測れば、$|+\rangle$ は必ず「$+$」、$|-\rangle$ は必ず「$-$」と出て、1回の測定で確実に区別できます。相対位相は「見る基底を変えれば見える」情報です。逆に言うと、ひとつの基底の測定だけでは状態の情報の一部しか見えていません。
古典ビットは $\{0, 1\}$ の2値。$n$ 個で $2^n$ 通りの値のうち常にどれか1つを保持する。一方、1量子ビットの状態の記述には(グローバル位相を除いて)実数2つ分の連続的な情報が要る。では「量子ビット1個には無限の情報が格納できる」と言ってよいか? 直観で構わないので、測定の性質(1回測ると0か1の1ビットしか得られず、状態は壊れる)を踏まえて考えよ。
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言えません。状態の記述には連続量が必要でも、取り出せるのは測定1回につき1ビットで、しかも測定後は状態が射影されて元の $\alpha, \beta$ の情報は失われます(第4章)。同じ状態のコピーを大量に用意して統計を取れば $|\alpha|^2$ を推定できますが、未知の状態は複製できない(no-cloning定理、ステップ2)ため、これも1個の量子ビットからは不可能です。「状態空間の豊かさ」と「取り出せる情報量」のギャップこそ量子情報の設計を貫く緊張関係で、量子アルゴリズムはこの制約の中で振幅の並列性を活かす工夫です。